プラハ美術アカデミーの絵画4アトリエ

ペトル・ドゥブとマレク・メドゥナが語る、物理的な画像の薄れゆくアウラ、芸術の外にあるフライフィッシングとサイクリングへの情熱、そして文化戦線が今日の圧力をおおむね自ら招いた理由。

ペトル・ドゥブとマレク・メドゥナ – プラハ美術アカデミーの絵画4アトリエ | ArtGraduates Magazine
ペトル・ドゥブとマレク・メドゥナ、2026年7月、唯一無二の自撮り

ArtGraduatesのアカデミック探訪、今回はプラハ美術アカデミー(AVU)の絵画4アトリエを訪ねます。2018年より教育者2人組が主宰するアトリエです。対話は美術アカデミーを巡る本探訪の定型に沿いつつも、これほど個性の際立つ2人が相手とあって、現代アートの現場のありようをめぐる、より私的で切れ味の鋭い視点も避けては通りません。

前回、アトリエにはどれくらいの志願者が応募し、何人を受け入れましたか?

マレク:たしか昨年は30人を超える志願者が応募したと思います。受け入れたのは4人です。

ペトル:付け加えると、近年AVUはオンラインのシステムを使っていて、私たちは事実上すべての志願者を見ることができ、学校全体から選ぶことができます。

どのようにして教えることになったのですか? それはご自身の制作活動と並行した意識的な決断でしたか、それとも次第にそうなったのでしょうか?

マレク:きっかけは、かつてイジー・チェルニツキーからUMPRUM(プラハ美術工芸大学)で助手をやらないかと誘われたことです。その後、一つひとつの段階が自然につながっていき、やがてペトルと私は思い切ってAVUの絵画4アトリエ主任の公募に応募しました。ですから、ええ、意識的な決断でした。自分が何をしているのか、多かれ少なかれ自覚していました。とはいえ無意識は無意識のうちに私たちに作用しますから、どの程度、どのように影響したのかは確信が持てません。

ペトル:2018年、私はトシネツ市立ギャラリーでの個展を予定より2日早く設営し終えたので、公園でスクロールする時間がたっぷりありました。公募に誰を誘うか考えたとき、私の第一候補はマレクで、ヤン・シェリフとヴァーツラフ・ハーイェクがそれに続きました。付け加えると、当時の私はプラハの建築学校ARCHIPで1年間の講義形式の授業を経験したばかりで、その明確に定義された形式と大きな教育上の自由ゆえに、今でも時折その学校が恋しくなります。

セシリー・ブラウン展を訪れる前、Serpentine Galleryの前に立つ絵画4アトリエ
セシリー・ブラウン展を訪れる前、Serpentine Galleryの前に立つ絵画4アトリエ

アトリエの入学選考について簡単に説明していただけますか? また、いったん受け入れられた学生は、アトリエの運営にどの程度関わるのでしょうか。授業の内容や、招へいする講演者の選定、アトリエ全体の雰囲気について、発言権はあるのでしょうか?

マレク:入学選考はおおむねAVUの通例に沿って行われます。つまり一次では自宅で制作した作品が審査されます。二次は頭部デッサン、学校指定の課題、アトリエ課題、美術史の試験、そして私たちとの面接から成ります。受け入れられれば、学生は当然、ある程度はアトリエの運営に関わります。「授業の内容」という言い回しは私にはあまりピンときません。学生は自分の目標を選び、したがって内容も手段も自分で選ぶからです。私たちはその後、彼らとプロセスについて話し合い、その取り組みを多かれ少なかれ文脈づけようとします。ゲストの選定は相談することもあれば、しないこともあります。学生が不満を抱くこともありますが、毎回ではなく、それを考慮するよう努めています。学生が自ら活動を起こせば、私たちはそれを歓迎します。物事はつねに具体的に、ケースバイケースで対処します。一般化した答えや定型化した解決策はありません。学生は一方では学生ですが、他方では私たちの同僚であり、それに応じて互いに接しています。

ペトル:アーメン。

志願者を選ぶ際、個人的に最も重要だと考える資質や基準を一つ挙げるとすれば何ですか?

マレク:強度と、現代アートという営みへの信頼に足る関心です。

ペトル:強度と、現代アートへの信頼に足る関心です。

おおよそで、志願者のうち明らかに年長の学生はどれくらいの割合ですか? また、外国人の割合はどれくらいでしょうか?

マレク:年長の学生はかなりの数います。「外国人」というカテゴリーは、おそらく私には見極められません。片方の親がチェコ共和国の外で生まれたり暮らしたりしている学生もいます。長くここで暮らしていても、チェコの外で生まれた学生もいます。同時に、他校や他国からの交換留学生もいます。割合は時とともに変わります。どちらのカテゴリーも、相当な数だと言えると思います。

ペトル:国内のシーンは確かに多文化的に彩られ始めていて、それは素晴らしいと同時に難しくもあります。というのも、さまざまな国から来る人々の関心を引きつけようとしている美術の規範(カノン)を、絶えず見直さなければならないからです。ふさわしい言語という問いは、私たちより30年ほど若い世代との対話を試みることと、同じくらい重要に思えます。

アトリエのゲスト、左から:ヴラディミール518(2025年アトリエ冬季講評のキュレーター);「文化と自然の関係」について講演した生物学者スタニスラフ・コマーレク;「インターネットにおける科学と知」をテーマにした科学コミュニケーターのヤン・ロタ
アトリエのゲスト、左から:ヴラディミール518(2025年アトリエ冬季講評のキュレーター);
「文化と自然の関係」について講演した生物学者スタニスラフ・コマーレク;「インターネットにおける科学と知」をテーマにした科学コミュニケーターのヤン・ロタ

現代アートのシーンで際立った成功を収めた卒業生を何人か挙げていただけますか?

マレク:AVUを代表して言うなら、今のところ最も目立っているのはLucie Rosickáです。UMPRUMからは、たとえばFilip Dvořák、David Krňanský、Gabriela Těthalováを挙げられます。きっと多くを忘れています。ただ、重要なのは、多くの学生がこのアトリエを経てから別のアトリエに移ったということです。逆に、別のアトリエで始めて、私たちのところで修了した学生もいます。ですから私たちは卒業生に対して所有欲のような態度は持たず、自分たちの力量と資質の範囲でつねに適切なフィードバックを返そうとしています。また、何を成功と呼ぶかは時とともに変わっていくと考えています。

ペトル:喜んで名前を添えます。スロバキアでVÚB銀行財団の「Maľba roka」(今年の絵画)賞を受賞したSamo Kollárik、そしてチェコ〜スロバキア〜ハンガリーの軸の上で有望に揺れ動いているJános Vámosです。

卒業生の中に、あなた方の考えでは、より大きな評価に値したのに何らかの理由でそれを得られなかった、並外れた才能の持ち主はいますか? 何が彼らの行く手を阻んだとお考えですか?

マレク:もちろんです。ある意味で、誰もが受けている以上の評価に値します。同時に、芸術はつねに不確かな営みであり、それは利点であると同時にハンディキャップでもあります。私は礼儀正しくふるまい、名前は挙げません。行く手を阻むのは、たとえば運のなさ、経済的な安定の欠如、粘り強さの欠如、視野の狭さ(トンネル・ビジョン)などです。同時に、多くの人はこうした否定的な要素を、ある程度まで肯定的な価値に変えることができます。逆の人もいます。

ペトル:ええ、しかし……。ただ、この問いはいささか誤解を招きます。評価の度合いを決めるのは才能や個人の努力だけではなく、社会的・共同体的・制度的な数多くの要因でもあります。ですから、私の考えでより大きな評価に値した人を名指しして「成功と黙殺の間に新たな線引き」をするのは、なおのこと問題含みでしょう。同時に付け加えるべきは、私たちが送り出した「自前の」修了生はまだ2期目にすぎない、ということです。ですからAVUでの7年間全体を評価するのはいささか的外れで、一般に、それをすべきなのはむしろ他の人々です。

哲学者テレザ・マチェイチコヴァーとのアトリエでの議論のあとに残ったもの
哲学者テレザ・マチェイチコヴァーとのアトリエでの議論のあとに残ったもの

卒業後の数年間、卒業生が職業的にどうしているかを把握していますか。たとえば、プロのアーティストとして活動を続けている人はどれくらいいますか? あなた方の機関は卒業生の進路についてデータを集めていますか?

マレク:遠くから見守っています。美術の現場で顔を合わせます。連絡を取り合うこともあれば、取らないこともあります。AVUはあまりデータを集めていませんし、少なくとも体系的には集めていません。何が成功で、何がもはや成功ではないのかという議論も、たいして行われていません。そもそも芸術の領域では、成功というのは厄介なものですから。

ペトル:私たちと話したい人とは、喜んで話します。AVUは時折、教育省(MŠMT)の要件に応じて形式的な表を埋めます。ですが、本当の意味での卒業生との協働は、実のところ幻影、蜃気楼です。

あなた方のプログラムには、アーティストのためのデジタル・リテラシーに焦点を当てた指導は含まれていますか。オンライン・ポートフォリオの構築、SNSの活用、あるいは自己プレゼンテーションなどです。学生が作品を発表するのに最もよく使うオンライン・プラットフォームは何ですか?

マレク:これについても、ときどき話します。この点では、むしろ学生のほうが私たち、というより私に教えてくれることが多いと思います。彼らは主にInstagramを使っています。

ペトル:一般に私たちは、学生が自分のオンライン・ポートフォリオを構築するよう導こうとしています。理想を言えばSNSの外で、です。SNSは移ろいやすく一時的な、作者による制御の効かない道具だと捉えているからです。

ダヴィド・シュヴァルツの個人的なストックの品々をまとった、ミロスラフ・クリメクの生きた彫刻
ダヴィド・シュヴァルツの個人的なストックの品々をまとった、ミロスラフ・クリメクの生きた彫刻

学生が在学中から現実の現場と接点を持てるよう、あなた方のアトリエはギャラリーや美術館、その他の美術機関と積極的に協働していますか?

マレク:どちらかと言えば、個々のキュレーターや美術界の関係者と協働していると言えます。ときにはアカデミックな枠組みの中で(審査員、コンサルタント、講演者として)、ときにはその枠を超えて(キュレーター、オーガナイザーとして)です。

ペトル:私たちは機関よりも個人を重んじます。

美術教育では、教員と学生の間の権力の力学が議論されています。あなた方の機関には、地位の濫用を防ぐためのどのような仕組みがあり、それは十分だとお考えですか?

マレク:それは『マイノリティ・リポート』のような問いですね。予防はつねに、ある程度までしかできません。学校は階層的な構造です。教員はつねに、当該機関の内部でのみ通用する、ある種の権力を手にしています。教員は、校則や法的枠組みの中で適用・解釈され、また良識のルールとして定着してきた規則・作法・規範を守るべきです。私たちはそれに努めています。たとえば、権威と同僚性のバランスを取ろうとしています。ほかにも多くの両極性のバランスを、です。

ペトル:ハハ。マレクの『マイノリティ・リポート』の喩えを引き継ぐなら、犯罪を待ち構えるシステムにおける最大の危険は、すでに解決済みだという思い込みの中に潜んでいる、と言えます。

ロンドン北部、ハイゲイト墓地の東側にあるカール・マルクスの墓への遠征
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アトリエを2人で率いるということは、学生の前で共通の立場をたえず擦り合わせるということです。この2人組はどんな点で強みになり、逆にどんなときに難しさになりますか? 作品の評価で根本的に意見が食い違うことはありますか?

マレク:私たちの共通の立場は、まさに「何がなんでも一致する必要はない」という点にあります。そして、私たちが提示する食い違いは、議論されている問題や解釈されている作品に対して、異なる立場を取りうるということを学生に示せます。大きく食い違うこともあれば、ほんの少しのこともあります。ええ、ですから時々意見が合わないことはあります。どこまで細部に踏み込むかによって、つねに変わってきます。

ペトル:私たちは学生の幅広さを大切にしています。それは、私の考えでは、アトリエを1人で率いる形ではきわめて難しく、そもそも実現可能かどうかも怪しいでしょう。個人的には、それを学校での私たちの働きの利点だと考えています。同時に、自分自身の恩師たちについて覚えているよりも、桁違いに多くの注意と教育上の労力を要すると感じています。

ペトルさん、あなたはご自身の制作のかたわら、長らくアーティストの経済的地位に取り組んでこられました。Skutek協会(チェコの芸術家組合)の元会長として、「芸術のためのパーセント」原則の提唱者として、またポッドキャストPO AVUの共同制作者として、です。2024年にはあなたのモノグラフOddělení malby(絵画科)が刊行されました。今日、美術の現場のありようについて最も気がかりなことは何で、真っ先に変えるとしたら何を変えますか?

ペトル:質問の前置きが千通りもの言い訳を生み出していないか、確信は持てませんが、私が断然いちばん気がかりなのは、芸術のデジタル的な仮想化です。つまり、物理的な作品への注意の喪失、ちらつくオンライン環境への移行、そしてそれに対する、芸術と画像の大規模な商品化です。それでも私は、物理的な画像と、遅いメディアとしての絵画の経験が好きです。というのも、私はいまなおヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」という概念に囚われているからです。ベンヤミンは、芸術作品の本質的なアウラは機械的複製の時代に失われる、と論じました。複製技術が、複製された対象を、それが本来育ってきた伝統から切り離すからです。ベンヤミンの「いま、ここ」、すなわち具体的な場所・時間・歴史・儀礼的文脈への根ざしは、これから登場する世代のアーティストたちにとっても鍵であり続けるべきです。

アーティスト、スヴェトプルク・ミキタによるワークショップ
アーティスト、スヴェトプルク・ミキタによるワークショップ

芸術のほかに、あなたはフライフィッシングとサイクリングに情熱を注ぎ、ファッションにも関心をお持ちです。個人的に最も大切なもの、最後まで手放さないものは何ですか? また、学生にも芸術以外の関心を育むよう勧めていますか?

ペトル:私にとって第一はつねにフライフィッシングとサイクリングで、それに続くのがファッションでした。だからこそ論理的に、美術大学への進学を志願したわけです。(イジー・ダヴィドばりの微笑み。)ですが真面目に答えるとすれば、今日の教員の刷新された役割はむしろ、学生の注意をできるかぎり芸術へ引きつけることにあると感じつつも、マレクと私はどちらも、さまざまな角度から学生に「芸術の幕の向こうにも人生がある」ことを示そうとしていると思います。実際には、外部との出会いを通じて、芸術とはまったく別の分野の実に多様な人々がこのアトリエを通り過ぎていきました。生物学者、法理論家、文学の翻訳者、哲学者、ラッパー、ユーチューバーから、科学コミュニケーターまで。秋には、作品の複製撮影に関する内部ワークショップと、価格設定についての議論を学生向けに予定しています。

ヴァーツラフ・マギドとともに行った作品講評
ヴァーツラフ・マギドとともに行った作品講評

マレクさん、あなたはグループRafaniの創設メンバーであり、ご自身の制作では複数のメディアを横断し、しばしば言語を用いたコンセプチュアルな仕事に重きを置いています。Rafaniの、しばしば対決的だった集団的実践の経験は、今日のあなたの教え方に、そして意味のある絵画とは何かというあなたの考えに、どう反映されていますか?

マレク:おそらくかなり反映されています。Rafaniでの活動は、自らの意図を絶えず言語化し、他者の意図につながる能力に関わるものでしたから。また、しばしば対決的に映りえたRafaniの芸術的成果と、その成果へと至ったコミュニケーション、すなわち立場の衝突をあらかじめ定めた共通の目標に従わせようとしたコミュニケーションとは、区別する必要があります。これは私たちの教育活動にも役立ちます。さらに付け加えると、私が関心を持つのは、意味のある絵画それ自体ではなく、意味のある芸術活動一般であり、その一部として、あの忌々しい絵を描くことも含まれます。

2026年4月、AVUの拡大執行部は声明を発表し、チェコの文化機関は経済的・思想的な圧力に直面しており、それは民主主義社会の根幹への侵害だ、と述べました。同じアカデミーの教員として、この状況をアトリエと学生の視点からどのように受け止めていますか?

マレク:民主主義とは、つねに終わりのない交渉です。同時に、私たちは自分たちが望むことを語りすぎ、負うべき課題を語らなさすぎることがあります。美辞麗句のために、私たちはしばしば具体的な一歩を忘れます。学校の中で自分たちをどう組織するか、美術のシーンとその担い手はどう機能しているか、どの具体的な仕組みを改善しうるか、といった一歩です。つねに必要なのは、地道な作業、部分的な歩み、そして自分自身の芸術制作を超えた、公共のことへの関心です。

ペトル:現在、より正確に言えば、MotoristéとSPD(チェコの極右政党「自由と直接民主主義」)に覆い隠されたANO(アンドレイ・バビシュ率いるポピュリスト政党)、そしてそれに付随する終わりのないレイジベイト(rage bait)の見世物を、私たちは文化戦線の代表として、おおむね自業自得として受け止めています。これは不快ではあるが論理的な報いです。芸術の機能の根本原理を擁護することと、かつての文化行政への安価な批判とを、私たちが首尾一貫して区別できなかった年月への報いです。両者をしばしば混同することで、文化への公的支援の意義をめぐる正当な議論が、次第に、単純な政治的近道、ルサンチマン、メディア受けする挑発のための場へと変わってしまうのに、私たち自身が加担しました。とはいえ、私が毎朝、それがもう終わったのかと問いながら悪夢から目覚めること、そして人は自分に場と道具のある戦いの部分しか担えないと痛感していることに、変わりはありません。同時に、国内の大学はいまや社会の現実から、ひいては現在の課題から、あまりに遠ざかっており、その自治は本当に相応の見直しを要すると感じています。ポジティブな逸脱という(自己)批判的な島で生きることと、アカデミックな沼の真ん中にある、かび臭い(自己)参照的な島でただ生き延びることの違いは、私には本質的に思えます。

絵画4アトリエのアトリエ・ジン 1〜7号
アトリエ・ジン 1〜7号は次のアドレスからダウンロードできます:avu.cz/oddeleni/malba-4

最後に。道の入り口に立つ若いアーティストに、どんな助言を贈りますか? 現代アートで持ちこたえ、持続可能なキャリアを築くには何が必要でしょうか?

マレク:熱意、粘り強さ、そして分別です。

ペトル:一見、社会的に無価値に見えるものにも、ほかの手段では埋め合わせがたい価値がある、と信じることです。

インタビューをありがとうございました!

原文で読む: Česky

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